本当に答えはないのか?

†人生の最大の問いかけ

子供のとき、不安に耐えきれず母に尋ねた。「ねえ、死んだらボクどうなるの。」誰でも一度は心に抱く問いかけだ。母の答えは覚えていない。ただ、ボクの不安を取り去ってはくれるものではなかったことだけは確かだ。小学校の先生も教えてはくれなかった。校長先生の朝礼の話にも出てこなかった。不思議なことだ。最も重大なことなのに。

大人はわかっているはずだと思った。でなければ、あんなに平気な顔をして毎日生きていけるはずがない。この問題を解決せずに、のんきに食べたり飲んだり笑ったりできるはずがない。しかし、中学になって、大人も確たる答えを持っているわけではないと知った。大学に入って自ら答えを求めたが、科学にも哲学にも答えがないことを発見したのみ。

「私はどこからきて、どこへ行くのか。生きる意味はあるのか。」

人間として最も根本的な問いかけ。この問いに答えを持たずに人間は人生を始める。生きる意味があるかないかもわからないまま、人生を進めていく。人間は必ず死ぬのに、死んだらどうなるのかも知らない。あまりにもばかげている。けれども、これが人生の現実である。百年前、18歳の学生藤村操(ふじむらみさお)は、天地万有は「不可解」の一語に尽きるとの遺書を残し、華厳の滝から飛び降りた。自殺は性急だが、不可解な人生を不可解なままにして平気で生きるほうが不可解であると思う。哲学者カミュは、そうした不可解な状態を「病気」と呼び、あえて「病気」のままで生きることをよしとした。といって、それで生きる意味が見いだせたわけではない。

†考えないで生きていく

しかし、悲しきかな日本人。若い時の受験勉強や恋愛が、この根本的な問いかけを忘れさせる。社会に出れば、仕事や結婚、子育ての忙しさで思考停止する。日々の生活に追われてそんなこと考える暇もない。忘れてさえいれば悩まされない。そんなことを考え続ければ、へんな宗教に足をすくわれる。宗教は怖い。洗脳され理性を失いそうだ。ゆえにあえて答えをもたぬまま生きていく。生まれてきたから、死ぬ理由もないから、ただ生きているだけ。みんなそうしているじゃないか。みんな、いつかは死んで消滅し、無となり永遠に忘れられる。生まれてきたことは生まれてこなかったことと同じ。生きたことは生きなかったことと同じ。いずれにせよ意味がない。私が私であったことも意味がない。

†答えは昔からある

でも、本当に答えはないのだろうか?宗教に洗脳されるというが、答えがないと思い込むのも逆に洗脳されていると言えないか。聖書は、人間が何千年も前からこの問いかけをしていたことを記している。聖書中のコヘレト(伝道者)は、「空の空。すべては空。日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか」と述べ、「生きながらえている人」より「すでに死人の方に祝いを申し述べる」と揶揄し、その両者より「今までに存在しなかった者」の方が良いと結論付ける。

†それではいかに生きるべきか?

しかし、この人間の虚無的状態に対して、聖書自身がその第一ページで答えを出している。つまり創世記1章1節の「初めに神が天と地を創造した」という宣言である。物事に目的や意味を与えるのは、それを創始した者である。今、部屋の中を見回していただきたい。目的や意味なくそこにあるものは何一つないはずだ。それらに意味や目的を与えたのは、それを作った人間である。同様に、人間を創った者だけが人間に意味を与えられる。

人間は万物の創始者ではないから、生まれたとき、自分が何かのために存在するのか知らないのは当然である。人間が自分で自分に意味を与えることはできない。人間は自分の創始者と出会わないかぎり、自分の本当の存在意識や生きる目的を知ることはない。人間は答えをもたない。ただ、創造者のみがもつ。もし自分の創造者を認めないなら、「空の空。すべては空」である。人間、虚無を生きられるほど偉くも強くもない。

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