聖書の窓 No.4 「放蕩息子」

新約聖書 ルカ15章11節から24節

取税人や罪人たちがイエス様の話を聞こうとやって来た時、パリサイ人や律法学者が「イエスは罪人を受け入れて、一緒に食事までする」と文句を言います。
これを現代風に言うと、闇金業者やヤンキーたちとイエス様が親しくしていると国会議員や役人そして大学教授達がそれを見て「イエスは何であんな人間達と付き合うのか」と文句を言った。という感じです。
その様なパリサイ人や律法学者に対して、イエス様はひとつのたとえ話をします。それが今回の「放蕩息子」と言われている話で、神様が人間(善人も悪人も含めたすべての人)をどう見ているのかを教え、同時に私達は神様がどのような方なのかを知る有名なお話です。・・・話の概要はこれです。
ある人に二人の息子があった。ある日弟が「父さん。あなたの財産の分け前分を今私に下さい」と言った。それで父は身代を二人に分けると、弟はそれを持って遠い国に行き、そこで放蕩して湯水のように財産を使い尽くしてしまった。無一文になった弟は誰もが嫌がる仕事しか見つけられず、それでも食うに困っていたが、誰も助けてはくれなかった。
我に返った彼はこう決心した。「父の元に戻ろう。あそこでは使用人でさえ十分に食べているではないか。行って使用人の一人にしてもらおう」こうして弟は自分の故郷へ歩いて行った。毎日弟の帰りを待っていた父親は、弟がまだ家から遠かったのにそれを見つけ、走り寄って彼を抱きしめた。弟は「父さん。ごめんなさい。使用人で良いから雇ってください」と言ったが、父親は使用人たちに「一番良い着物を着せ、指輪を付け、靴を履かせなさい」と命じた。(これは「この人は息子である」という印です)そして「さあ、みんなで御馳走を食べて祝おうではないか、死んだと思っていた息子が帰って来たのだから」と言った。という話です。
何故イエス様はパリサイ人と律法学者にこの例え話をしたのでしょう。それは
とかく私達人間は闇金業者やヤンキーが「これから真面目に生きたいのです」と言っても「そうは言うが、しばらく様子を見よう。本当に真面目になった様子が見えたら、仲間の輪に入れてあげよう」と考えがちです。
しかし神の子であるイエス様は「私の父である神はそうではありません、この話の父親の様な方なのです。その人が立派に成ったから愛するのではありません。私の元に戻って来る者は全て私の愛する息子達なのです」と教えたのです。
取税人も罪人も皆イエス様の元にやってきました。世間的にはまだ立派ではありませんが、イエス様にとっては愛すべき人達なのです。そしてその事を社会の指導者であるパリサイ人や律法学者に知ってもらいたかったのです。

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