聖 書 の 窓 No8
「不思議な社長さん」 新約聖書 マタイの福音書20章1節から16節
あなたの会社に二人の女性が入社したとします。一人は非常に出来る人で、効率良くバリバリと働き、会社の業績もアップさせました。もう一人は母子家庭の母親です。幼い子供の世話があるのでいつも定時で帰り、残業も休日出勤もしませんでした。
さて月末になり社長さんが皆に給料を渡した時、出来る人が言いました「社長。私は沢山働き業績も上げました。その為に辛い思いも沢山したのです。それなのにあの人(母子家庭の母親)と同じ金額なのですか。」
すると社長は「私は不正な事はしていません。入社の時に決めた金額をちゃんとお渡しました。あなたは仕事で辛い思いを沢山しましたが、あの人も子育てで辛い思いを沢山したのです。私はどちらにも報いてあげたいのです。」と言いました。皆さんはこんな社長さんをどう評価しますか。
実はこの話には原作があります。聖書のマタイの福音書20章1節から16節までの、ブドウ園の主人のたとえ話で、神様はこの主人の様だとイエス様は言っています。
私は作家の三浦綾子さんが著書「新約聖書入門」でこの箇所を取り上げ、「夕方に雇われ少ししか働かなかった者は楽をしたのか。そうではない。彼らは一日中市場に立続けた。もしかしたら飢えている子供のパンの為、また今日中に払わなければならない家賃の為に少しの望みに掛けてジリジリと雇い主を待ち続けたのかもしれない。彼らの心中を思うと、朝からブドウ園で汗だくで働いている者と同じ苦痛を負っているのだ」と評しています。私は彼女の解説を読んだ時、この話の奥深さ、またイエス様が示した神様とは、どんな方なのかについて深く考えさせられました、
私達人間は、とかく有能な者、自分に利益をもたらす者を称賛し、無益な者を下に見る傾向があります。しかし神様は全ての者を平等に取り扱う方なのです。そればかりでなく、聖書に「人はうわべを見るが、神はその心の中を見る」とあるように、神様は私達の心の中も知って判断してくれます。そしてその判断の基準は「愛」と「いつくしみ」です。「愛」とは何でしょう。聖書にはこう書かれています。
「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反せず、自分の利益を求めず、苛立たず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。全てに耐え、全てを信じ、全てに期待し、全てを忍びます。愛は決して絶えることがありません」
そして聖書には「神は愛です。」とも書かれています。
ですから「神様はこの様な視点で私達を見てくれているんだよ」と、このお話は伝えているのではないでしょうか。