旧約聖書 創世記3章5節
聖書を読んだことのない人も「アダムとイブ」は知っていますね。では、ここで問題です。彼等の食べた木の実はリンゴの実だったのでしょうか。・・・答えはNOです。
聖書によると、それは善悪の知識の実だったと書かれています。「それを食べるとあなたは神のようになり善悪を決められる様になります。」と蛇は言い、「それを食べると必ず死ぬ」つまり滅んでしまうから食べない様にと神様は言ったのです。
しかし残念な事に、それは美味しそうだったので二人は食べてしまいます。
するとどうなったのか?聖書には続きが書いてあります。そよ風が吹くころ神がエデンの園を歩く音を聞くと、二人は神と顔を合わせない様に身を隠したのです。すると神が聞きます。「あなたは、あの実を食べたのか」アダムは「あなたが私に与えたあの女が勧めたので食べたのです」エバは「蛇が私をだましたので、私は食べたのです。」と答えました。一見、読み過ごしてしまいそうな箇所ですが、この箇所は聖書の教えの重要な要素の一つである「罪」と言われる自己中心について書かれているのです。自己中心とは私が善と言えば善、悪と言えば悪、私の行動の善悪を決めるのは私自身だというものです。それは両刃の剣です。神のように全知,全能、愛、善,聖、義憐み、自制等の性質を持った方が用いれば良いものを生み出すが、不完全な者が用いれば、わがままで隣人に不幸をもたらす存在になります。人は不完全な者なので、それを知っている神は「その実を食べてはならない、食べればあなたは私から離れ、神のようにふるまい、この世界に不幸をもたらすことになる」と言ったのです。
しかしアダムとエバはその実を食べてしまいました。すると彼らはどうなったのでしょう。まず彼らは。神から身を隠します。これは神との関係を断つ分離です。次に「実を食べたのか」の問いにアダムは、エバが勧めたので食べたので悪いのはエバで、私じゃないと言っています。しかも「エバはあなたが私に与えた女」ですよと、神様にも責任の一端があるような言い方です。責任転化、私は悪くないという自己中心性の典型です。また、エバも悪いのは蛇だと責任転化していますね。
自分の思いは善、反対するものは悪という考えは、例えば自分に欲しい物があるがお金が無いので買えない時、欲しいという思いは善で、それを邪魔するお金が無いと買えないという社会は悪なので無断で手に入れます。つまり盗みです。そして「俺をこんなにしたのは社会が悪いからだ」と言います。また人は思いを成し遂げるために他人をも殺す事もあります。犯罪の根源は自己中心なのです。
そういう私も他人や世間を恨んで一年間もウツウツする状況に置かれれば、恨んでいる人を殺しかねないし、「悪いのは世の中だ」と叫んで犯罪に手を染めかねないかもしれません。
聖書には「全ての人は罪人です」と書かれています。これを「全ての人は自己中心の性質を持っています」と解釈すれば「なるほど」とうなずけるのです。
聖書はこの原理を教え、不幸を取り除き幸福になる為に、罪を解決し再び神との関係を取り戻す方法も教えています。