新約聖書 ルカの福音書19章2節から10節
プレバトというテレビ番組があります。この中に夏井先生監修の俳句のコーナーがあり、17音の短い文で深くて広い世界感や緻密で壮大な映像を感じさせるのが名俳句と紹介され、俳句に縁がなかった私もついつい見入ってしまいます。
さて聖書の中のお話も簡潔ですがその裏に壮大な世界が秘められているものがあります。「取税人ザアカイ」のお話もその一つです。・・それはこんな話です。
ザアカイという男がいた。彼は取税人の頭で金持ちだった。ある時イエスが町に来たというので、ザアカイはイエスを見ようしたが群衆のため見れなかった。背が低かったからである。そこで彼は通りのイチジクの木に登った。イエスが木の下に来ると「ザアカイ。急いで降りてきなさい。今日あなたの家に泊まるから」と言ったので、彼は急いで降り、喜んでイエスを迎えた。そして立ち上がり神に誓った。「神よ、私は財産の半分を貧しい人に施し、だまし取ったものは四倍にしてその人に返します。」イエスは彼を祝福して「今日救いがこの家に来ました。彼も神の恵みの中にいたのですから」と宣言した。という短いお話です。
さて冒頭の「彼は取税人の頭で金持ちだった」で彼の人生が見えてきます、取税人とは、この国を占領していたローマ帝国の手先になって国民から税金を搾り取る人で、かつ規定以上取り立てて私腹を肥やしたので、町の嫌われ者、やくざ者的存在です。また頭で金持ちだと言うのですから、その世界でのし上がれる、頭が切れ、実行力のある人物と想像出来るのです。そこにイエスがやって来た。当時イエス様は超人気者。役人や偉い学者から場末の貧乏人までもが称賛し、嫌われ者の取税人や罪人とも親しくすると噂の人物です。それを見ようと出かけたザアカイ、意地悪されて見れません。彼は町では名の知れた金持ちです。「すみません。ちょっと」と人を掻き分けて前に出れそうなのにダメだった。そのくらい皆から嫌われていたことが読み取れます。
普通、ここで諦めて帰るところですが、彼は諦めずに近くの木に登ったという文でザアカイの心の内が読み取れます。彼には満たされないものがあったのです。
当時の社会で取税人になるということは貧しく身分の低い出身です。また頭の切れる人物ですから、幸福になる道は何かと考えて「お金」の答えを出したのでしょう。否それしか道は無かったかもしれません。低い身分では役人や学者にはなれませんから。
しかし金儲けで成功し、その目的に到達しても自分の望んだ幸福は手に入れられなかった。彼は幸福を与えてくれると言うイエスの噂を聞いて、それを得たいと思い、子供のように通りの木によじ登った。そんな姿が読み取れるのです。
そんな彼にイエスは声をかけます。「今日あなたの家に泊ります。」当時、泊まるとは大変親しい間柄か信頼のおける関係を表します。イエス様はザアカイに友人愛を示したのです。その愛に接しザアカイの人生観は180度逆転します。どうしてでしょう。
私は、彼が求めていた真の幸福は「愛」だったからと読み解きますが、皆さんはどう読み解きますか。
聖書に「愛は・・人のした悪を思わず」と言う言葉があります。作家で心理学者のジョージ・W・クレイン博士は誉めることによって、人がどんなに変わるかをいくつもの例を挙げて紹介しています。その中の一つをご紹介します。
帽子工場に勤めているある婦人は同僚のローラのことを気取っている冷たい人と思っていました。しかしある日夕日が差し込む窓そばのローラの横顔がとてもきれいと思って、思わず「ローラ。あなたって美人ね」と言うと、ローラはびっくりしたように見つめ返していましたが、やがて泣き出し始めました。それから色んなことを話し始めました。彼女はほんとは寂しがり屋で口下手でした。たから、みんなに馬鹿にされないようにと工場に来てから17年間余計なことをしゃべらないように、またうつむかないで顔を上げている様にしてきたそうです。
それが気取った冷たい人の正体でした。私達は目の前の人の悪を見ると、それがその人の全てだと思ってしまい、対立したり切り捨てたりしがちです。
しかし「愛」はそれを乗り越えて理解や和解に導きます。聖書は、この「愛」について色々な箇所で教えています。「愛」とはなにか。愛するとはどんなことか。そして何より、他の人だけでなく、自分をも愛する愛とは何かを。